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奄美群島について 知る

​奄美群島ってどこ?

 奄美群島は、鹿児島と沖縄の中間の北緯28度に位置する島々で、奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の8つの有人島で構成されています。

 

 一番面積の大きい奄美大島では、国内最大規模の亜熱帯照葉樹林が広がり、ルリカケスやアマミノクロウサギなどの固有生物、マングローブや世界北限のサンゴ礁など、豊かな生物の多様性が見られます。その生物の多様性や希少性が世界的に注目され、2021年7月26日に世界自然遺産に登録されました。


 古代からの歴史が生み出す壮大な自然、原生林散策、多彩なマリンスポーツ、島ならではの歴史や食など、多様な自然・文化を有する奄美群島だからこそ味わえる魅力がたくさん!その魅力をぜひ感じてみてください♪

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​奄美群島の歴史​~黒糖地獄~ 

 鹿児島県に属し、沖縄とはまた違う独自の島文化をもつ奄美群島。その背景には奄美群島の歴史が関係しています。

 鹿児島県と沖縄県の間に位置する奄美群島。奄美群島の支配権をめぐって薩摩藩と琉球王国の間で争いが起きていたそうです。15世紀半ばから16世紀後半までは、奄美群島は琉球王国の統治下であり、(島民からは)「那覇世(なはんゆ)」と呼ばれていました。これにより、琉球王国の信仰や政治が奄美群島でも主流となりました。

 

 その後薩摩藩が琉球を征討し、奄美群島は薩摩藩の領土となります。「大和世(やまとんゆ)」と呼ばれるこの時代、奄美群島では米に代わり、当時とても高価だった黒糖を年貢として納めさせられていました。島民は黒糖の生産を第一優先にしなくてはならず、天候による不作の年も決められた量の年貢を納めさせられ、自分たちの食料の生産も追いつかない過酷な「黒糖地獄」の状況にありました。当時はサツマイモやソテツの実を毒抜きして食べていたそうです。

 その後廃藩置県により鹿児島県に属することになった奄美群島ですが、第二次世界大戦後には沖縄と共に約8年間アメリカの統治下におかれました。「Northan Ryukyu(琉球北部)」として扱われた奄美群島では、九州や本州に渡るにはパスポートが必要になり、物価も高騰し、政府によって自由が奪われることに不満を持ちはじめます。島民が一丸となって復帰運動に取り組み、いち早く日本に復帰しました。

 

 このように、外部による政治的支配を繰り返してきた奄美群島。とても特殊な歴史を持つ地域であるということに気づかされます。そしてその複雑な歴史の背景こそが、奄美群島の独自の文化の所以なのです。

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​ソテツ

西郷隆盛と妻 愛加那

​「ナリ」と呼ばれるソテツの実

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 幕府から身を隠すために、奄美に島流しにされた薩摩の偉人「西郷隆盛」。はじめは島民となじめず、島民からは「大和のフリムン(変人)が来た」と噂をされていました。

 

 しかし、西郷は黒糖地獄で苦しんでいる島民の実態を知り、「農作物は天候や天災に左右される、それでも島民を罰するのなら藩主に報告する」と島の役人に直談判したそう。

 

 その時に出会った女性が愛加那(あいかな)。西郷が世話になった龍家の娘です。西郷と愛加那は仲睦まじく暮らしていたそうですが、二人目の子が産まれないうちに西郷は薩摩藩より呼び戻されてしまいます。西郷は薩摩に戻った後も愛加那と子供たちのことを気にかけていたそうです。

 

 その後、徳之島へ島流しにあった西郷。愛加那は2人の子どもを連れ徳之島まで会いに行き、久々の家族の再会を喜びましたがそれもつかの間。今度はそのまま沖永良部島に島流しされることに。沖永良部島では罪人として牢に入れられました。ようやく赦免され薩摩に戻る途中、奄美大島の龍郷に住む愛加那と子供たちのもとを訪れ数日を共に過ごしましたが、西郷と愛加那が共に過ごしたのはこれが最後となりました。2人の子どもはのちに西郷と再会していますが、島妻(アンゴ)の決まりにより薩摩についていくことのできない愛加那は、その後の生涯も奄美大島で暮らし続けました。

 

 2018年の大河ドラマ「西郷どん」では実際に奄美大島の竜郷町で撮影が行われ、当時の様子や奄美の文化、自然が細かく描かれました。

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西郷が島で奥さん愛加那や子どもと暮らした家

西郷南洲流謫(るたく)跡

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